抱きしめたくなるような美しい宝石、
あるいは、アボリジニの魂について

〜ペピン結構設計公演、『東京の米』を見て〜

 電車の中などで、メールを打ち終わった後、あるいは着信を確かめた後、あるいはアドレスの一覧をざっと眺め終わった後で、男の子や女の子が、携帯電話を必死と握りしめている……。そんな風景を見ると、ボクはときどき、オーストラリアの原住民(アボリジニ)がいつも持ち歩いていたという、チュリンガのことを思い出すのだ……。

「――図柄は単純なものですが、チュリンガは、ドリームタイムを生きていたときに、彼らが得たものだと考えられ、オーストラリア原住民はそれをいつも身近に置いて、儀式をしたり、狩猟をしたり、お祭りをしたりしていたのです。……。オーストラリア原住民からこのチュリンガを奪ってしまうと、彼はとたんに不安になり、元気がなくなって病気になり、ひどい場合には死にいたることさえあったそうです。……。彼らはチュリンガをいつも持ち歩くことで、自分たちが先祖の生きたドリーム・タイムにつながっているという充実感をもち、またそれによって自分たちの生の意味を確かめようとしていたのです」(中沢新一「イコノソフィア」より)

 つまり、携帯の男の子や女の子たちを見ていると、これがなくなったトタン、「不安になり、元気がなくなって病気になり、ひどい場合には死にいたることさえ」あるのではと、ふと、ボクは不安を覚えるのだ。
 しかし、もちろん、そんなコトはない。なくなれば、新しい携帯を手に入れればいいのであって、彼らの携帯が、アボリジニのように、生の意味を教えてくれるドリーム・タイムとつながっているわけではない。
 だって、現代ではみんな、生は、いつでもリセットできるもんだと思っている、でしょ。

(ああ、ボクも、これは現代病だなあ〜と思うのは、日々コンピュータで仕事をしているせいもあって、なにか手作業をしている最中に、たとえば部屋の片づけをしている最中に、「ああ、いまの失敗だった、やり直したい」と思った瞬間に、頭の中でリセットボタン(Macの場合はコマンド+Z)を思わず探してしまうコト……)

 しかし、現実には絶対に、人生はリセットできないノダ。

 親を選ぶことは誰にもできない。同じように、出会える恋人を選ぶこともできない(とボクは思っている)。いくら携帯を買い替えても、新しい人生は始まらない。
 にもかかわらず、人々が携帯にしがみつくのは、そこにしか、人とのつながりがないほど、一人になると淋しいから――。
 というわけで、やはり、携帯は「自分たちの生の意味を確かめようとして」いる、現代のチュリンガのように思えてくるのだった……。

*   *   *

 今日、ペピン結構計画というグループの芝居をはじめて見たのです――。
 宝石のような、とても、とても美しい舞台でした。
 そう、まるで、アボリジニの魂の、美しいように。
 ボクは、この、「東京の米」という芝居を抱きしめたいと思った。
 まるで、携帯を必至に握りしめている男の子や女の子の淋しさを、ボクの胸の中に素直に流し込めるよう、祈るように――。

 作・演出の石神夏希サンは、まだ22歳くらい。実は、3年前、LABO! に出てくれた女優の最年少記録なのですが、この作品で、彼女の作家としての才能はハッキリと証明されたと思います。

「東京が嫌いだ!」という言葉から始まった物語が、「東京の次の駅へ!」で終わる、縦軸=時間軸の流れ。それと、「男であること?」と「女であること?」という実存的な空間が横軸となって、流れるナンセンスなコメディー。
 こんなふうに言うと、なんだか難しそうな芝居だけど、実際にも、難しい芝居だった!
 石神サンはとても難しい、大切なコトをボクらに思い出させてくれます。ボクは、とてもとてもたくさんのことを考えさせられました。(そして、女として、彼女の体と心のなかで、起こっている「難しい」不均衡のことへも思いを馳せたのです)
 つまり、「男であること」と「女であること」、すなわち、生産ということ、お米という体になる食べ物のこと。あるいは、「東京の値段」、駅という場所、山手線、人々の流れ、携帯電話、その「ニアピン賞」にすぎない(新)横浜という地域性。それから、笑い、笑うことの悲しさ、おふざけの悲しさ。などなど……。

「父親のお葬式に突如現れた父親の愛人が、お米を産む女だった……。その女(=母親)に惹かれつつ、真剣には愛することができない米屋の次男坊、のお話……」ってわけ。
 こんな魅力的なお話ってあります? ここには、カニバリズムと近親相姦のテーマがふんだんに含まれているぞ!

 そして、彼女の持っている抒情性と諧謔は、ホンモノでした。
 選曲もよかった。ムーンライダースに、中島みゆき。でも、それより、なにより、自分に嘘をつかず、気負っていないセンスがいいんだよね〜。

*   *   *

 しかし、石神さんが、ただただ切実に、アボリジニのような魂の時間、ドリーム・タイムを求めていることは、これはもう明白です。
 携帯にしがみつく男の子=女の子の淋しさを越えて、子供を産む性という役割を越えて、ホンモノのドリーム・タイムを求めていることは明白です。
 ドリーム・タイム、つまり、確かな「生(性)の意味を教えてくれる場所」を、彼女は全身で求めている。
 できれば、男の精を受胎するより、夢を受胎するような、そんな女の体でありたいと思っているようです。

 つまり、ふるさとを――。

「オーストラリアの原住民は、ドリーム・タイムをいろんなふうにとらえています。まず、それは先祖の生きていた遠い昔の時代でもあるし、虹を紡ぎだす大蛇のような神話の動物たちが生きていた時代でもあるし、同時にそれは、現在でもオーストラリアの砂漠の風景に埋め込まれてある「聖地」を巡礼することによって回復される時間でもある。オーストラリア原住民が日々の生の意味を実感をもって生きようとするとき、かならず意味のマトリックス(母胎)が浮上してきますが、その意味のマトリックスの見い出される場所が、ドリーム・タイムだといわれているのです」

 ですから、こんなふうにも言えるでしょうか、
 この「東京の米」という芝居で、彼女は「女」という、ありえない性を抱えながら、東京の中になんとか「聖地」を探そうとしたのだと。
 それは、宝石のように、美しい、レアな旅だったのですが、けれど、依然として、彼女の中では旅は終わっていないのです。

 そして、ボクは、予言は好みませんが、この旅を終わらせるのが、いかなる意味でも〈男〉ではないと、思っています……。

2002.08.25
JIN


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