「俳優の抱く恐怖」
『かもめ』マキノノゾミ演出、を見て。

 舞台に立つ役者の不安というものは、計りしれないものだ。

 もし、本当に自信のない状況で舞台に立たねばならないというとき、役者は、自分を安心させるために、あらゆる非道な手段を使うことも辞さないだろう。
 人を傷つけるなど日常茶飯事、酒に溺れる、麻薬は吸う、あげくの果てに、人を殺すくらいなんとも思わないだろう……。

 チェーホフという作家の怖さは、そういう事態に役者を追い込むところにある。
 (まあ、フツーはどんな芝居もそうなのだが、チェーホフだけは、また特別だ)

 ある日、突然「わからないよお!」というパニックに、役者を陥れるのだ。
 最初はなにげなく読む。なにげなくは、まあ、わかる。「ああ、こういう話のスジなのね」と……。
 ところがアッチョンブリケ! 
 その表面的なわかりやすさに騙されると、突然に――、稽古の中で、「ええ! なんでこうなるの?」「わからない!」と、いう局面に、役者は追い込まれてしまうのだ。

「わかる」「わからない」という言葉の原点はすべてチェーホフにある――。

「頭ではわかってるんだけど、できないのォ〜」などと、役者はよくいう。それは、はじめからわかっていないのだ。ぜんぜん、わかってはいないのだ。

「わかる」ということは、別段、難しいことではないだろーが。フツーのことだゾ。
 たとえば、ボクらが電車に乗っているときに、なにか「わからない!」ということがあるだろうか? 「ボクはどこにいるのだろうか?」「どこへ行くのだろうか?」などと考えるコトは異常である。しかし、舞台役者というものは、時に、そういう「狂気」に襲われるノダ。

「わかってるんです。でも、できないんです!」という役者。
「できないんだったら、ぜんぜんわかってないんっだっちゅうーの!」とオレ。

 電車に乗っている時に、「電車に乗っているコト」をわからない人がいるだろうか?

 しかし、役者という者は、時に、ホントに、自分が「どこにいるのか?」わからなくなるのである……。

 そして、「わからないまま」に、舞台に立つコトは、ほとんど不可能なのだ。パニックなのだ。

 そして、おそらく、チェーホフほど、そういう恐怖を役者に与える作家は、古今東西いないと思う。まあ、それだけ、人間のリアルな心理を、誤魔化しなく、勇気を持って描いてしまった! というコトなののだと思う。(これは奇蹟だ……)

 というわけで、新国立劇場はこんなんでいいのだろうか?

 マキノノゾミさんが、なぜ、チェーホフを演出したのか?
 演出すべきだったのか?
 あるいは、演出したかったのか?
 まったくわからない。
 ほとんど、学芸会だった。いや、学芸会だって「みんなで楽しみたい」という欲望があれば、もっと面白いものになっていただろう。ほとんど、愚ノ骨頂。端っさらし。いいかげんに、中断シテ欲しいと思った。

 役者の責任?
 それも、ある。が、結局は、演出の責任だと、ボクは思った。
 役者はだって「怖い」のだ。「わけのわかんないコトをやっている」とは絶対に思われたくない。そう思われるくらいなら、せめて自分だけでもいい、納得のできる空間にいたい。
 それが説明的でもいいさ、少なくとも言い訳はできるから……。

 というような極度の不安に、役者を陥れてしまったのは、演出家マキノさんの責任だ。間違いない。

 舞台で起こることのすべてが、役者の不安を抑えるためのアトヅケ、アトヅケで、誰も一人として、観客を物語に引っ張っていく役者がいなかった――。
 驚くべき事実である――。

 まあ、いいや……。
 他人事だし……。

 しかし、チェーホフについて、もっと語ることがあるが気した……。
 面白いチェーホフ劇をつくれるか、どうか、というコトは、その国の演劇能力の指数となっている気がするからである――。

 ホントだよ!


jin, 25/02/2002


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