「雪舟展」を見て。


 ついに上野に出かけた。
 現在、11:20。入場まで40分待ちである。黒々とした人々の群れが列を作っている。何分か毎に、入場をくぎっている。合図があると、ゴーとながれ始め、またピタリと止まる。ゴー、ピタリ、ゴー、ピタリ。
 館内に入っても、縷々とした列は続く。作品はガラス板一枚隔てて陳列されているから、人々はガラスギリギリをズロズロとベルトコンベアーのように動いていく。パンダを見に来たんと勘違いしている人もけっこう、いやほとんどだったんじゃなかろーかと目を疑う光景だ。パンダは隣の動物園だ!
 そこへ、背後から「立ち止まらずに進んでください」という係のお姉さんの声。(ムカつく声! 全体主義的な声!)
 それでも、そこここで、思わず立ち止まって見入ってしまう人がたまに、ごくたまに自然発生してまう。ボーッと、取り憑かれたように、その作品の前で見入ってしまうのだ。で、列が滞る。進めないと分かって、あきれる後続の群れたち。眉を潜める。時には論外にも「進めないじゃないの」という小言も聞かれる。
 だったら追い越せばいいのに。自分で判断して動けばいいのに。でも、ただ流れに身を任せて動かされているだけなので、自立した視点で絵を見ているわけではなので、その流れが阻害されることじたいに不愉快になっているのだ。
 でも、見入って立ち止まるのは当たり前じゃないか、と思う。だって、僕らは芸術を見に来たのだから。メディアに、広告に、「雪舟」というブランドに乗せられて、ただ、ゲージツを眺めるために来たのじゃない。
 絵というものは、見る人それぞれの固有の時間感覚でじっくりと、またあっさりと見るものだ。おそらく、それを書いた画家たちと同じくらいの時間の濃さを味わうものだ。

 そんなコトは鼻から論外、不可能な、人の数と、主催者側の無能さなのだった……。
 主催する側に、絵をしっかり見てもらおう、という熱意も配慮も工夫もカケラもない。悲しい……。

 ああ、考えるだに、言いたいことが募る!

 というわけで、言うまでもなく、僕と、僕といっしょに出かけた友人は、もちろんそんなベルトコンベアーに乗っかるわけもなく、ときに割り込み、ときに同じ絵の前でなんども巡回し、立ち止まり、しゃがみ、人にぶりかり、白い目で見られ、気を使い、あやまりつつ、オバハンの小言をもらい、腹を立て、嫌な気持ちになり、そんなんでどうにも心から楽しめることなどできずまいであった。
 小言をいったオバハンは悪くない。オバハンの知性は貧弱だとしても、原因はすべて国立博物館と主催者側にあるのだ。のだ。のだ。

 まあ、いいや。わかってて、ほとんど最終日近くに行ったボクらも悪いんだけど。(でも、まともに見るべきものも見れない状態で、1400円は高いだろ、と思ってしまう)

*   *   *

 と、こんなことばかり、読み返してもつまらないので、気を取り直して、雪舟について書こう。
 雪舟の作品は、全部で20数点が「真筆である」として現存している。今回はそれらが一堂に介する大回顧展だったのだ(でも、こういうのも回顧展っていうの? 雪舟と同時代に生きた人は、今はもうきっと、誰も生き残っていないのに。誰が何を回顧するのだろう? ふざけてる)。
 それに、伝・雪舟とされている作品、つまり、文字どおり、雪舟が書いたよと伝えられているけど、お偉い学者センセイが「いや、これは雪舟じゃない」として、価値を認めていない作品がやはり20点以上(そのなかには、なかなかいい絵もあった!)、それに雪舟が影響を受けた絵の先生や中国の画家の作品(雪舟より面白いものもあった!)など、併せて100点以上、あった。
(というわけで、雪舟展、といつつ、かなり恣意的な水増し展覧会だったな〜)
(ボクの提案では、御丁寧に年代順に、御自慢の学説を誇るかのように、よく納得のいかない並べ方をするより、もっとわかりやく、護送船団軍団のためにも、「これが雪舟! ホンモノ! 真筆!」という奴だけ、一ケ所にまとめて(実際、一部屋で済む!)、そこだけはベルトコンベアーにしてもいいから、あとは、参考資料室とでもなんとでもして、スカスカのガッラガラ、心安らぐ展示室を作ってほしかった!)
(と、また文句だ。かなり根は深い、とみた)
 でも、展覧会はそれ自体がひとつのパフォーマンスであり、表現であり、プランであるから、展示の仕方でもって、同じ絵でも伝わるものが変わる。今回のこの展示では、とても丁寧で慎重な「学説」には従っているのだろうけど、雪舟自体という人そのものに触れ得るには、邪魔と欠落が多すぎた気がする。邪魔といっても、もう話は群集の事じゃないよ。参考資料という名の脇道が多すぎるコト。伝・雪舟が多すぎるコト。伝・雪舟だったら、伝・雪舟でしかすぎないのなら、まがりなりにも、真・雪舟展なのだから、そういう扱いをすべきだ。

 (眼鏡を忘れて、ベルトコンベアー越しには解説の文字が見えなくて困った。失敗だった……)

*   *   *

 と、ここまでが前置き。(長げえよ)
 そういうわけで、雪舟とは何者なのか、ボクにはシカとはわからなかった。
 言われているほど、すげえ〜人なのかもわからなかった。
 確かに、いくつかの絵はすごいのだ。ちょっと、ダ・ヴィンチに匹敵するかと思えるくらい、すごい。技術と思想とバランス感覚(のなさも含めて)が、高いレベルで透徹している。
 しかし、ダ・ヴィンチのように、自己抑制が利いた、人格的にバランスのいい人ではなさそうだ。むしろ、すごい不安定。ムラ気がありすぎ。いい絵とそうでない絵との差が、歴然とある、気がした。
(そういうところ、大した記録も残していないのに、そのキャラクターで、戦後のヒーローであり、今もプロ野球界の象徴のような愛され方をしている某ミスター氏に似ている。そういう、絵書きバカ一代だと、例の山下裕二センセイがおっしゃっていたけれど、ホントにそうなんだと思う)

 雪舟のすごいところはその筆さばきのスピードだ。
 とにかく迷わない。迷わずに、パッパ、パッパと書いていく。
 もちろん、丁寧に慎重に置くところは繊細きわまりない。集中力もすごい。例えば、最高傑作の一つ、「慧可断臀図」の達磨の顔や、これもすごい迫力だった「四季花鳥図屏風」の鶴のたたずまいや冬木の細枝の繊細なうねり、など。
 一方で、適当なところはメチャクチャ適当に、筆を置いている。クチャクチャ子供が塗りたくっているような感じ。あんまり集中力はないけど、そのスカスカさ加減が絵全体にいいリズムを出しているのだ。絶筆の「山水図」の画面左下の岩面や、「倣高克恭山水図」という巻き物も山肌である。
 でも、いずれも、決して筆の速度は遅くない。いさぎよい。迷っていないので、絵が生きている。
 国宝となっている「破墨山水図」などは、(国宝といわれるほどの力を感じないのだけど)、おそらく1、2分くらいでサッサカと書き上げたんじゃないかと思うほどだ。

 雪舟という人が見えにくいのは、ホントに器用で、当時の流行の中国の画家のタッチをすべてまねて、そういう雰囲気で描き分けることができ、実際にもさまざまなスタイルの絵を残している人だからだ。それでいて、子供のような単純な絵心と無邪気さがいつも同居しているからだ、と思う。

「慧可断臀図」は、画題のおどろおどろしさにもかかわらず、絵全体から放射される端正な、ほどよい実在感には思わず引き込まれる。大胆な構図が、写真で見るほど、唐突ではないのだ。不思議と調和しているのだった。

 ひるがえって、「四季花鳥図屏風」は、一人の人間が書いたとは思えないほど、さまざまなテクニックが集結された、人を圧倒する大作。木肌のゴツゴツした物質感。草や葉のやわらかい繊細さ。鶴の羽のさらにも軽い透明感。触ると怪我をしそうな岩肌の拒絶感。雪の山肌のたゆたう白さ。さらにも白く光る紙の地肌で表した雪。遠目から俯瞰できなかったのが死ぬほどに残念だったのだった。

 それから石橋美術館にある「四季山水図」。やや若い頃のとりわけ中国画風の作品か。国立博物館の同じテーマの「四季山水図」より、テクニックにごだわりのない感じがして、懐が深い印象。でも全体には、この画題に特有の神経質な気がただよっている。
 特に、四季を描いて雪舟がきわめつけなのは、「冬」だ。
 雪舟というだけのことあるな〜と思う。冬という季節の持つ、透明感、緊張感が、リンとした空気をいつもいつも伝えている。冬が好きだったんだね、きっと。

 そして最後に、「溌墨山水図巻」。
 これはもう音楽です。楽譜です。ジョン・ケージだったら、これでこのまま作曲してます。優れた現代音楽演奏家なら、これでこのまま演奏できます。
 絵というのは、ある観点から見れば、真っ白い紙を墨や絵の具で「汚す」行為だ。だから、筆を置かなければ、紙はずっと白いままなわけで、でも、人はあえて、それを汚す。画家は、あるイメージや意図をもって「汚す」わけだけれど、この「溌墨山水図巻」にいたっては、雪舟はなにも考えてないです。意図ゼロ。イメージゼロ。ただ、墨がどんなふうに紙を汚したら、カッコイイかしか、感じていない。
 ボクがもう一度見たくて、この巻き物の前を流れるベルトコンベアーの2周目に入った時、すぐ後ろにいた、若いカップル二人が「お、これはカッコよさげ!」「うん、いい感じ」と言って、盛り上がっていたのがかわいかったなあ〜。「な〜んだ、わわってるジャン、こいつら!」って。

 個々の絵についてはいろいろ感じる。ドキドキする。
 それくらい雪舟はやはり見応えのあるスゴイ人でした。
 でもほとんどマトモに見れなかった。
 まいった。まいった。
 やっぱり、いい絵は、細部を見て、遠くから見て、また細部を追って、ぐるぐる目を動かして、画家のタッチに触れて、また遠目から見てって感じで、最低でも10分から15分は時間がかかる。そうして、さあ、全部見たって、出口で、もう一度、引き返して見たりする。そういうモンじゃないかと、そうして、そうか、この絵はこういう絵なのかな、と感じるモノがある。
 ボクはそういう風に絵を見る人なので、今日は、あ〜あ、ホントに悲しかった!

 この展覧会は、上野の国立博物館はもう19日でおしまいです。
 でも雪舟の絵は、けっこう国内にあるので、運が良ければ、京都や山口にお出かけの際には見えるかもしれません。
 雪舟の作品リストは、国立博物館のこのページにあります。
 ご参考まで。

 いったい、人々は、どういう気持ちでミュージアムへ足を運ぶのだろうか?
 ボクにはそれがわからなくなってしまった……。
 絵とパンダは違う。パンダだって、じっくり見たいけど、でも人間が作ったもんとちゃうし(この話は、でもまあ、後日また――)。
(展覧会も採算が取れる範囲で、展示期間を決めて、チケット限定にしてもいいのではないだろうか? コンサートのように……)。

2002.05.18
JIN


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