「男と女の境界?」
クラック・ラック公演『Just A Family』を見て。
冷静にゆっくりと、この精細なコトを丁寧に、大切にしながら作られた舞台を、僕はしっかり見れたのかどうか……。ちょっと微妙な思いが交錯してしまったので……。でもそれは秘密。
(あ、でも秘密っても、それは、これから男と女の話をするとしても、それは全然男と女の話じゃないよ。むしろ、男と男の話なのさ。)
こんな(ような)台詞があった。「男と女の境界ってなに?」
作者はそれについて、答えなかった。答える必要のない方向へ、物語は進んでいった。
進んでいった先には、「女」のようなお化けだけが浮かんでいた……。
(そこでは、女たちも「女」なら、男も「女」だった!)
男の(つもりの)僕は、したがって、取り残されてしまった……。
やや、嫌な後味……。
ジェンダーとセクシャリティーは違うのだ。
と、言われ続けた。そのとおりだ。
ジェンダーは交換できるが、セクシャリティーは交換できない、らしい。
(僕は、フェミニズム社会学も、性心理学も、あまり信用しない)
たとえば、ピカソは、一緒にキュビズムを創始したブラックのことを指して、晩年、「あいつはオレの女だった」と言った。これは別にホモセクシャルな話ではないよ。この「女」というのは、ホントの「女」のことだ。
それから、ゲルニカを空爆したファシズムのフランコのことを、子供を殺されて身をバラバラにして狂う母親と同じ姿で描いた。ファシズムの独裁者は、彼にとって、やり切れない女のヒステリーだったのだ。
もちろん、彼ほど多くの女を愛し、女に苦しめられた男は、なかなかいない。
つまり、本物の男だということ。ホントに「女」のことを知っていたということ。
だから、こういうことになるだろうか。
コトバ面だけで言えば、「男と女の境界」とは、「女を知っているか」ということだし、「男を知っているか」ということだ。
そして、今は、「女のコトを知らない男」ばっかりだし、「男のコトを知らない女」ばっかりなのかもしれない。つまりだ、「男」も「女」もほとんど、いないのだ。どっちでもないようなのばっかりなのだ。(僕も含めてね。おそらく、残念だけど……)
でも、そういう現実をリアリズムでやられると、ちょっとめげてしまう。
シニカルで、ヒステリックで、ペシミスティックすぎる。
僕だったら、理想でもいい、幻想でもいいから、ピカソを描きたいと思う。
マリリン・モンローを描きたいと思う。
そういうことです。ホントに。
芸術、なんて、この商業主義、もっと言えばアメリカ帝国主義の前で、ないに等しいものになってしまったけれど、でも、もしあるとすれば、それは女の美しさを描くコトではないか、と僕は信じる。
* * *
役者たちはがんばっていた。
福森さんも桜岡さんも、ふたりとも素敵な女性である。そして、素敵な女優だと、まあ、僕は言いたい(けど、この芝居を見たあとでは「女優」という言葉も禁句のような気がしてきてしまう)
ふたりとも、特異な持ち味をちゃんともっていて、それを活かすことのできる舞台俳優だ。
福森さんは、いつもノドが開いているところが凄い。キャラクターの息をいつも体のなかに少し残しているので、流れをつないで泳いでいくことができる。流れの中で溺れてしまうことがない。
桜岡さんには、独特の間合いがある。これは天性のものだ。欲しくたって、誰もが獲得できるものではない。
唯一、男優だった石母田クンは、男優なのに、上記の理由で「男」の役ではなく、なんでもないノッペラボウの幽霊か、女の腐ったお化けみたいな役だったので、可哀想だった(かもしれない)。
男には、男のジレンマと主張があるし、「なにも言わない」としても、そこに理由がある。石母田クンはまだ、そういう芝居の核(そこにいる理由)を自分で探し出すことができないし、また書かれてもいないのだから、それに演出もされもしないのだから、哀れに見えた。
* * *
作・演出家の藤井さんについて言えば、自分で書いた世界を精密に、客観的に俳優に伝える技術は確かなものである。なかなか、尊敬に値する、と思う。
その音楽的なセンスも偽物ではない。人と人とのカンケイを観察する力もある。
しかし、ホントは、彼女は「男」を美しく描きたいのではないかと思う。
そういう方向に向かわなかったところに、少し(実はかなり)流れがシュンとなってしまう、原因があったのではと察する。
一言でいえば、シニカルで、ヒステリックで、ペシミスティックすぎる。
jin, 18/02/2002
|