シェイクスピアの芝居にする方法。

劇団昴ザ・サード・ステージ『マクベス』を見て

 シェークスピアを芝居にするには?
 いまだ自分が演出したことのない世界、しかし、近い将来に挑戦してみようと思っている世界へのアプローチ方法について、考えて見ようと思う。

 シェークスピアの脚本を、いちばん面白い芝居にするために、いちばん大切なポイントは、彼が生きた「ルネッサンス」という時代ではないか、思うのだ。

 「ルネッサンス」とは何か?
 徹底した合理的精神と古代的な瞑想がバッチリと結びあった不可思議な時代なのだ。ストレートには、キリスト教的世界の中世を飛び越えて、明るいギリシア的な、地中海的な明晰(アポロ)と狂乱(ディオニュソス)の神話世界へと向かう。
 シェークスピアの世界において、顕著なのは、GodやLordではなく、godsが多いということなのだ。
 王様たちは、イングランドの王も、イタリアの王も、なぜか、Lordへではなく、ギリシア神話のgodsやgoddessたちへ宣誓するではないか。まるで、ローマなんかこの世に存在しないみたいだ。
 中世の教会支配の暗い雲間から、情報過多の光の時代がやっと訪れた頃だったのだ。
 直前の大航海時代はヨーロッパに、見知らぬ他民族の習俗や宗教の情報をたくさんもたらした。そればかりか、古代ギリシアや古代ローマの遺産であり、アラビアにおいて発展した、数学や哲学の知識がやっとヨーロッパに伝わった時代なのだ。
 そういう中に、シェークスピアの天才は開花したのだ。

 その一方で、イギリスは大きな変革の時期を迎えていたこと。
 新しい時代の変わり目にあったことを忘れてはならない。
 こういう時代の変動の空気は「ハムレット」や「リア王」にもある。

 ここに、おそらく、シェークスピアが、全世界的に受ける秘密がある。

 なぜなら、現代社会の資本主義は、いつも、常に、この変革的な空気を人々に強要するからだ。いつもお祭りであるように、かつ冷静でもあるように……。
 そしてさらに、そのように変革的であるためには、つまり、いつも新しいものと出会うためには、過去へのリバイバルやレトロが必要なのだが、そのための天才的な先駆者が、古代ギリシャをリバイバルさせた劇作家の才能なのだと思う。

 そして、そうした時代の人々は、現代と同じように、言うに言われない不確かさや不安を、深い無意識のうちに抱えていたのだろう、と思うのだ……。

 ニホンで上演するシェクスピアは意外に、このことを忘れてしまう。
 お祭り気分と冷静さ。
 ディオニュソス的な狂乱とアポロ的な明晰さ。
 この二つの共存がなくてはいけない。どちらか一方ではいけないのだ。

 (まあ、それ、そのものが演劇的な知性というものなのだが)

*   *   *

 たとえば、「マクベス」では、魔女たちが狂乱を担う。これは、どうしたって担う。彼女たちは、ただの無力な虐げられた庶民ではあってはならない。憎悪でもいい、怨恨でもいい、呪いでもいい、何か、強烈な、そして邪悪な「酔い」の渦中にいなけばならないのだ。
 そこに、ドラマの力学として、マクベス夫人が感染する。彼女の美貌の力が、狂乱(憎悪=怨恨=呪い)の成就を約束するのだ。
 もちろん、酔っ払いの門番も狂乱組の一人だ。ただし彼は、狂乱のもつ、無秩序な性質のうち、ナンセンスでマージナルな部門を担う。だから、門番は酔っぱらって、我がわからなくなっていなければいけないし、睡魔と欲情のはざまをゆらゆらたゆたっていなければならない。乱暴で不愉快でなければダメだ。
 そうした狂乱のリアルが、観客を「わけの分からないどこか」しかし、「(お祭りのように)興奮するどこか」へといざなっていくのでなければダメなのだ。

 一方、明晰な論理は、すべてのアンサンブルにある。
 ここでの論理というのは、社会システムだからだ。
 演技のあらゆる瞬間に介在する、王と家臣の主従的友愛関係に、また家臣同士のライバル的友愛関係の中に反映されていなければいけない。
 王に対する「恐れ」「忠誠心」「遠慮」「抜け目なさ」あるいは、王の家臣への「傲慢さ」「腹黒さ」「スケベさ」あるいは、王妃の「驕慢」や「美しさ」といった人間関係のアイテムは、これを、架空のものにしてはいけない。
 なぜなら、現代の会社に生きるサラリーマンたちは、ほとんどこれと同じ感情を毎日毎日生きているからである。
 こういった呪縛の関係は、上司であるマクベスと暗殺者(シートンなど)の間にあり、ライバルであるマクベスとバンコーの間にあり、家庭を持つ身の切なさと愚かしさはマクダフにある。また、社長の息子の傲慢さとプライドが、マルコムの中になければいけない。
 封建社会の主従関係が現代的であること。そこに社会システムの明晰な論理があるのだ。

*   *   *

 「マクベス」は確かに、おぞましく、卑劣で、陰惨な歴史劇であるだろう。
 しかし、それを、明晰なシステムと狂乱の魔術との闘いと見るときには、日々システムの抑圧に辟易とする観客の日常にとって、「汚い悪」であれ、システムの外へといざなう熱狂の夢を、狂乱できるのもとして、つまり「キレイなもの」として提示できなければやはり面白いものにはならないのではないかという気がするのだ。

 おぞましく、卑劣で、陰惨なものに、観客は興奮する。無責任な観客は興奮するのだ。それでいいではないか。

 おそらく、そういう、野蛮への讃歌が、「昴」という劇団の芝居にはいつも足りないと思ってしまう。

 われわれ芝居人は、正義を伝えるためにも、一度は、完璧に、悪魔の気持ちにならなければいけないのだ!
 「ヒットラー、万歳!」「天皇陛下、万歳!」と、思いきり(クリティシズムなしに)、その気になって、叫んでみるコト。そこに興奮を感じて、次にそこから、キチンと戻ってくる勇気が必要だ。

 観客はバカじゃない(と信じよう)。

2002.07.09
JIN