人間ってなんだろう。
Dotoo「もの申す人」を見て。


 人間ってなんだろうか?
 人びとは、フツー問わない。
 よくわかったつもりになっているからである。わからないのは、個々の、○×さんだったり、△×さんだったりで、あえて、人間とは? とは問わない。

 ボクは福田卓郎サンに、あえて、切に、お願いしたのは、「人間てなんだろうか?」と問うてみてください、というコトだ。

 別の言い方をすると、都合良く、事件を起こさずに、物語を進めてみてはどうだろうか、というコトかもしれない。

 ダレダレが結婚すると言い出す、ダレダレが家を出ていくと言い出す、ダレダレが帰ってくる、ダレダレが不満をぶちまける。ダレダレが……。ダレダレが……。ダレダレが……。ダレダレが……。

 おそらく人生というものは、事件のなさ加減でもって成立しているのだ。
 人と対立したり、主張したり、仕切らない瀬戸際で、人生は、すこぶるドラマチックなのである。

 それが「人間」じゃ!

 と、あえて、卓郎サンにはいいたい。
 10人いるなら、10人の心がどんなふうに交錯するのか、そのコトの中からのみ、物語をつむいでみてはどうだろうか? その中には、作家にとって都合良く動く人物は一人もいないはずである。
(チェーホフを読んでほしい!)
 人の心は見えないもので、1+1=3になる世界であると。計算しきれないものであると。だからこそ、そこにドラマがあるのだと。

 また、別の言い方をすると、話を「イデオロギー」でもってまとめるな! ということである。
 家族は大切。自由も大切。古き良き頑固さも大切。
 これらはすべて「イデオロギー」である。
 なぜなら、現実はそう簡単にはいかないし、また、そこには、現実の切実な問題を緩和してくれるようなリアリティーもないからだ。

 人は、家族も会社も、自由も平等も、命も死も、文明も自然も、アメリカもイラクもみんな大切に思って、捨てられずに生きているのだから。

 まあまあ、お話の世界なんだから、そう固いこと言わないで、と言う向きもあろうが、だったら、こんな戦中戦後の話はやめてもらいたい。子供にとってだけでなく、大人(と自分で思っている)ボクらにとっても、冗談ではすまされない要素があり過ぎる。
 こういうマジな題材を、本気で冗談にするなら、ホントに本気でナンセンスになるべきだ。「人の死」すら笑い飛ばすべきだ。そうしたら、客は本気で「人の死」を考えるだろう。チャップリンの『独裁者』のように。それこそが、ホンモノの喜劇ではないか?

 以上、脚本のコトに関してだけ。一言、言った。
 おしまい。

2002.05.07
JIN


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