「風になって、水になって、
重力を蹴り立てて、世界と対峙する」
『雪村展』を見て。

 渋谷の喧噪から離れて、神泉駅の近く、松濤美術館で「雪村展」を見る。
 これまで、雪村なんて知らなかった。いま書いているパソコンの日本語変換システムでも、雪舟は出て来るが、雪村は出て来ない。さてさてどうなることやらと、上野の「雪舟展」を尻目に、渋谷に出かけたのだった。

 松濤美術館じたい、はじめて入った。小さいけれど、上品で、親切で心地よい美術館。よいものを丁寧にお見せしようという気持ちが伝わる。
 くわえて、この展覧会でなにより秀逸なのは、監修の山下裕二センセイ(明治学院大学教授)の「解説」。一点一点、雪村への愛情と、ぜひ知ってほしい、楽しんでほしいという気持ちが伝わる「解説」だ。ぜんぜん難解じゃない。わかりやくすくて、楽しくて、嘘をつかずに、転がるようなのびのび文章が付いている。素晴らしい!
 たとえば、こんな感じ――。

「雪村が描く柳にはほれぼれする。中でも、この絵がいちばんじゃないか。大胆さと繊細さは、普通、矛盾するものだが、この充実した時期の雪村(40代から50代)には、両方の要素がみごとに溶け合っている」

「右の一群の人物、いちばん手前の、ひげぼうぼうの人が孔子。左の人が話しているのを、静かに聞いているようだ。どんな会話なのか。そして、バケツみたいなものがぶらさがっているのは、なんなんだ……」

「まず二匹の巨大な鯉が、目に飛び込んでくる。とにかくデカい。鷺の大きさと比べれば、1メートル級か。しかも、この鯉に、まるで粘液のような波がからみつく」

 ね、見たくなるでしょ? ならない?
 続けて、雪村についても、山下センセイに解説してもらうと――。

「雪村周継(せっそんしゅうけい)は、16世紀、京都を遠く離れた東国に住んでいました。生没年すらわかりませんが、1500年ごろ生まれて、茨木、福島を中心に、各地を点々としたようです。世はまさに戦国時代。80余歳まで長生きして、織田信長と同じ頃に亡くなったと思われます。
 同時代の画家にくらべて、雪村の絵は驚異的にたくさん残っています。現在200点近くもあるでしょうか。京都の画家の絵は、その多くが戦乱で焼けてしまいました。雪村は田舎に住んで、名もない人々に与えたものも多かったので、こんなに残ったのかもしれません」

 山下センセイ曰く、同時代や後世の画家たちに影響を与えた「雪村ウィルス」があるのだそうだ。それが、どんな「ウィルス」かは見てもらわないとわからないだろうけど、ボクの私見では、かなり日本的な「ウィルス」だなあ〜と思う。前もここで書いたけど、日本画は、水墨画も浮世絵も現代のマンガに通じるものがある気がする。ある種の誇張とかデフォルメとか。雪村の時代は、中国の絵がアイドルだったから、雪村も、画題とかモチーフとか、中国画にとっても影響を受けているんだけど、その細部に宿る天才がとっても日本チックなんだね。それが山下センセイ曰く「雪村ウィルス」なんだと思う。
 仏教は、親鸞に至って初めて、鎌倉時代に、日本的オリジナルの表現を獲得したけれど、絵画や建築や舞台芸術は、それよりちょっと下がって、南北朝時代から室町時代、さらに安土桃山時代に、日本的な霊性をやっと素直に表現できるようになった。絵ではもちろん、雪舟が、この「日本的なもの」の開祖。でも、山下センセイが強調したいのは、雪舟よりさらに先へ、もっと「日本的なもの」の奥地へと、雪村が歩みを進めてしまったというコトなんじゃないかと思う。

 じっさい、雪村の描く空間は日本のSFマンガみたいだ(なんて言うとさすがに山下センセイも怒るかしら?)。物質がすべて重力に抗って、想念の中で、うねっているのである。岩が地面から水のようにうねって突出している。竹が節々で、またその途中でも、グニャリとうねっている。梅の枝はもちろん、柳の枝ももちろん、太いのも細いのも、濃いのも薄いのも、線という線がことごとく、まるで世の中でねじ曲げられてしまう若者の信条のように、グワングワンうねっている。そこにある「自然」には、地球を支えている重力という、ありきたりのルールがまったく通用しなくなっているかのようだ。この発想は、そのまま日本のSFやアニメそのものじゃないか。
 とくに印象的なのが、生き物のようにネバッこくはね上がる、水しぶきだ。いやいや、アレは、もはや、しぶきとはいいがたい。滝つぼのキワで、魚のワキで、波のくだける岩のタモトで、水がまるで生き物のように、てろんと立ち上がって、白く輝いて静止しているのである。それは、アメーバのようでもあるが、アレはどうにも、精液にしか見えない。しかも発射された瞬間の。みんなにもそう見えるんじゃないかな。躍動する精子の「意志」すら感じられるほどだもの。
 次には、風だ。風が吹いているのだ。見えない風がいつも吹いているのだ。時には音楽のように、時には野茂英雄のピッチングのように。この人は、風の心で空間を構図している気がする。(風は、雪村に限らず、余白で勝負する水墨画にはいつもいつもつきまとう感覚だけど、雪村の風はまた格別に鮮烈なのだ。)見えないけど、よく見えるのだ。その形が。流れが。その方向が。いつか、辿り着きたいとあがいている作者の境地が。波のように、渦のように、槍のように、そして最後には、レーザービームのようにまっすぐに、迷いなく、俗っぽい欲情を昇華しようと吹き上がっている。

 こんなふうに、自然物を、自分の感覚に従いつつ、デフォルメし、想念によって突出させる手つきはとても「日本的なもの」のように思える。それは、現代日本が世界に誇るアニメやテレビゲームの作り手たちにも確実に受け継がれているものだと思う。しかし、問題はここからだ。現代のアニメやテレビゲームの作り手たちと、雪村の違いは、その精神性の深さではないか。それを宗教性と言ってもいい。とにかく、深さなのだ。

 あるいは、どのような厳しさで世界と対峙するか、というコトだろうか。

 とにかく、一人の画家を通して、人間が精神的に闘ったその足跡を回顧できる、とてもよい展覧会ですから、もう期日は少ないけど見に行ってみてくださいませ。
 くわしくは
松濤美術館のHPへ。

 「列子御風図」には震えた。並べ方もいい。


06/05/2002
JIN


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