「色が濃くなったり、薄くなったり、
また確かに写ったり、にじんで写ったり」
〜『紫扇会』の日舞を見て〜

 さて2002年ですねえ。ここで、あらためて21世紀が始まったとボクには思えるフシがあって、というのも、去年の9月11日の「事件」があったからで、つまりは、まあ、あまり明るそうな心持ちではないんであります……が、しかし、今年もがんばるぞ! ワールドカップもあるし、風向きは次第に変わりつつあるのであります。
 で、年のはじめに、日舞の「お初舞い」を見てきました。
 LABO! もいろんなジャンルの人とつきあいがあるのかしらん、去年の「ソライロノハナ1」に出てもらって、踊りの振付けもしてもらった中村優子サン(ク・ナウカ所属)が「市川紫豊乃」(リッパな名前!)という日舞の名取りサンで、不定期的に日舞のお教室を開いてまして、その発表会に行ってきました。

 そこで感じたコト――日本の芸能は「余白」で見るモノを引きつける!

 ボクはどちらかというと音楽的というより美術的な人間なので、すぐ美術にたとえてしまうんですが、日舞の面白さも日本画と同じだなあ〜と思いました。
 押し付けない、主張しない、余白を残してそこで見るモノをこちらに呼び寄せる。けっして「表現」でもって「なにかを伝えよう」とはしない。奥ゆかしさ。タンパクさ。「見られている」というコトの最大限の可能性を追求するコト(「見せる」のではないというコト)。言葉ですべてを説明しないし、説明できないコトをはじめから前提にして、わからなきゃわからないで割り切る!――そんな感じ。

 こういうセンスは(おそらく)日本人の自然との接し方から生まれてきたんだと思います。
 日本の芸術は、みな自然をよく観察しています。観察してそこから、眼に見えるものだけを、これまた自然のままに取り出してこようとします。自然の裏にはなにもない。表面だけがあるのだと。
 ヨーロッパだとそうは行きません。キリスト教的なモノの見方でいくと、自然は神様がつくったものですから、その裏に「意図」を読み取ろうとします。「意図」でなければ「法則」ですね。いずれ抽象的な思考の産物です。科学技術が見る自然がまさにそういうモノです。セザンヌは言いました、「自然は円と三角形と四角形でできている!」。ピカソやマチスの自然の形象を「遊ぶ」やり方も同じ精神に裏打ちされています。クラシックバレエも同じです。身体を幾何学的に解体/再構成します。「天に向かって飛翔する」欲望。「重力から逃れたい」欲望。そんな抽象的な思考がバレエには働いています。
 それに対して、日本の「欲望」はオノレを第一には立てない。我を出さない。その身を自然にゆだねる。そんなところから(少なくとも江戸時代以降は)出発しています。芭蕉の俳句や正岡子規の「写生」という方法がソレです。まずは自然をありのままに見る。見て描写する。我を出さない。しだいにその「自然」が見ているオノレのなかにも広がってゆき、やがて自然の中に、今度は「我のないオノレ」が見えるようになってくるだろう……というものですね。――えええ? 「我のないオノレ」ってなに???
 もうこうなると日本思想の核心まで一直線です!
 西田幾多郎ふうに言うと「絶対矛盾の自己同一」というコトでしょうか?
 なんじゃソリャ!

 正岡子規とともに「写生」の運動をすすめた高浜虚子はこう書いています。

 客観写生という事は花なり鳥なりを向こうに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色とか、そういうものから来るところのものを捉えてそれを謳う事である。だから殆ど心には関係がなく、花や鳥を向こうに置いてそれを写し取るというだけの事である。
 しかしだんだんそういう事を繰返してやっておるうちに、その花や鳥と自分の心とが親しくなって来て、その花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心が動くがままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずるというようになる。花や鳥の色が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、にじんで写ったり、濃淡陰翳凡て自由になって来る。そうなって来るとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持ちを写すことになる。
 自分の心持ちを謳う場合にも花鳥は自由になる。

 日舞(の美しさ)もこういうものではないかと思いました。
「色が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、にじんで写ったり、濃淡陰翳凡て自由になって来る」。そういうところに、美しさがあるのだな〜と思いました。
 だから「花鳥風月」、自然の美しさを知るコトがなにより大事なのでしょう。そして、「花や鳥」以上に、「女」が美しき自然そのものなのです。見るべきものなのです――というふうにいうと抵抗のある方もいらっしゃるでしょうから、言い換えると「女性性」とでもいいましょうか。身体を「女性性」として見るコト、ひとつの「自然」として見るコト、なのです(けっして言語の持つ分節化機能によって分断しないというコトです)。そこでは、男の身体ですら「女」なのです。

(そんな「女」の「美しさ」が、女からも男からも、自然からもどんどん失われているよなあ〜、今は、という気がしました)

「色が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、にじんで写ったり」

 ほんとに。
 型のなかを流れる陰翳、というものが日舞の美しさなのでしょうね。
 それは量的に、数値によって換算できないもので、純粋に質的なものですので、フツーの言語によっても表現し切ることはできません。
(ヨーロッパ言語のスゴイところはこういうものすら「印象派」だとか色彩理論でもって分断し説明しようとするところです!)
 もちろんそれだって一種の言語ではあるのですが、そこらへんを日本語はつかまえようとはしてきませんでしたし、今もつかまえようとはしていません。ただ端に「もののあわれ」などと言ってきたのです。
 それが良いのやら悪いのやら……。

 けれどまあ、少なくとも、自然の中の「花や鳥」に驚く心、同じように、「女」の中の「自然」に驚く心――驚き、それを「向こうに置いてそれを写し取る事」がいいなあ〜、そんな舞台表現がいいなあ〜と思ったのであります。

 というわけで『紫扇会』の日舞です。
 みんながみんな、そんな「花や鳥」のような「美しさ」味わえる「発表」ではありませんでしたが、みなさん一方では舞台で活躍する役者サンでもあるからでしょうか、不必要な打算や競争心がなく、素直で、だからこそ日舞のホントウの良さ、みたいなものが(ホントウかどうかは知りませんが)ボクなどにも見えてきたのではないでしょうか。
 LABO! にも出てくれている下村恵里サンも踊っていました。
 中村優子サンにエールを!
 がんばれ!

 ボクもがんばろう!
 みなさんもがんばれ! 2002年!

 がんばれ!ってのも、いい言葉ではありませんがね。

 


jin, 05/01/2001


演劇ユニットLABO!のページ ■ 

Jin's コラムのページ ■