見えない部分を
推して測らなければならない不幸
という事実。

テアトロ・ヴァッシェロ
ジャンカルロ・ナンニ演出
『かもめ』を見て

 つい、昨日のコトである――。
 ワールドカップで、さんざん待たされたあげく、やっとのコトでカメルーン代表を迎えた、中津江村の村長は、代表チームが初戦へと旅立つ時、村を離れる時、こんなコメントを残した。

「感無量です。中津江村にとってはかりようのない偉大な一週間でした。いいチームを誘致できてうれしい」

 びっくりした。ちょっと感動した。
 だって、こんな素直なコメントは、スポーツ新聞には似合わない、あまりに生な、ホンモノの言葉だったからだ。
 こういう台詞は、むしろ、クサすぎて、新聞記者が創作できるようなシロモノではない。村長にとっては、気持ちを超えた、言葉の限界を表しているまったく不如意の台詞なのだ。
 ボクはなんどもなんども読んでしまった。

「感無量です。中津江村にとってはかりようのない偉大な一週間でした。いいチームを誘致できてうれしい」

 ところが、である。
「と、(村長は)安堵の表情を見せた。」
 と、新聞記事は話を収めるのだった――。
 バカいえ、こういう台詞を吐く、人間の心が安堵の表情なものか!
 勝手にストーリーを作りやがって!
 主観で記事を書くのはやめろ!
 読者の主観に訴えるような、創作ストーリーを作るのはやめろ!
 事実を操作するな!
 安堵な表情だけで、こんな台詞を吐く、人間がいるものか!

 あ〜あ、玉に傷、というものである。
 確かに、中津江の村長はじめ村民は、来日の遅れたカメルーン代表にヤキモキしていた。その焦燥感は、全国区のニュースとなったが、しかし、村民はみな、カメルーンの選手たちが到着した時点で、彼らと出会った時点で、そんな騒ぎなんかぜんぶ吹き飛んでいたはずなのだ。なのに、「遅刻のお騒がせカメルーン」というイメージを新聞記者たちは勝手にでっちあげて、彼らが村を無事出たコトで「安堵した」という物語を創作しているのである。
 これは、ほんのちょっとした一例に過ぎない。新聞記事というのは、そんな「創作」記事ばっかりだ。
 それより、なぜ、この村長の素直な驚きや喜びをえるコトができないのか? カメルーン代表への感謝の気持ちを、直接的な事実として、新聞というものは、伝えるコトができないのか?
 ホント、マスコミの創作意欲には腹が立ってしまう……。

◎   ◎   ◎

 というわけで、テアトロ・ヴァジェロは、ローマを中心に活動している劇団である。今回は、日本の劇団ク・ナウカの招聘で、はじめて日本を訪れた。
 さあ、イタリアのチェーホフ、だ。世界ツアーを敢行し、演出家はニューヨークのアクターズ・スタジオでも教えている巨匠と聞いて、かなり期待していたのだ、けれど――。
 結局、(実力より前に)調子が悪すぎた試合のような、公演だった。
 海外の劇団を日本に招聘する事業というのもなかなか難しいものなんだろうな〜と、まずは外枠に眼を向けなければいけない気持ちになった。
 そういうわけで、中津江村の話が思い出されたのだが、つまり、受け入れ側としての、ク・ナウカの理念と姿勢が、中途半端だったと思うノダ。彼ら、ク・ナウカの面々は、このイタリアの劇団に対して、心からの、いやどんな敬意も払っていない、ように見えたのだった――。
 そこらへんの交流が、中津江村とカメルーン代表のようにはハッピーではなかったのではないか、と思うのである。
 初日のせいもある。それは少なからずあるのだが、彼ら、テアトロ・ヴァジェロの8人の役者たちに思わしいテンションがなかったという事実。これは、第一に、受け入れ側のク・ナウカの責任でないか。第二に、テアトロ・ヴァジェロというプロダクションに巣食っている人間関係の問題もあった、と思うのである。

 とにかく公演場所が悪い。
 なぜ、あんな、中途半端な学生劇場(法政大学学生会館大ホール)で公演させることにしたのか?
 同じ大学構内のホールでも、20年前までの学生たちが身にまとっていた雰囲気だったら、意味合いが全然ちがったろう。彼らとて、うんざりするコトはなかったであろう。しかし、現在、法政大学学生会館大ホールという場所を取り巻いている、今の大学生たちの顔、態度、空気など、どんなコトがあっても、初めて日本に来た芸術家たちには晒してはならない類いのものではないか。しかも、ヨーロッパの芸術家に!
「なんでこんなところで公演をしなくてならないのか?」
 そういう役者の顔がありありと見えた。
 彼らは、そこここにたむろしている、ダラケた学生たちが、自分の観客だという、そういう誤解すら感じたのではないだろうか。

 芝居がはじまって早々の気合いのなさは、そういう感じだった。
 これは、初めて、海外の劇団を招聘したク・ナウカの、失敗である。
(だから、二日目、三日目以降、彼らがどのように調子を取り戻していったのか、いかなかったかは知らない)

◎   ◎   ◎

 という次第なので、彼らの良さも、演出の意図も、面白さも、調子の悪さを捨象して、推して測るよりしようがない、というな事態だったのである。

 そうして推して測った上で、内容の話だが、アルカジーナを演じた Manuela Kustermann という中心女優をつねに見せよう、見せようという演出が、とても鼻についた。残念ながら、アルカージナという役は物語の中心にはいない。彼女を、彼女だけをいくら前面に押し出しても、物語はちっとも面白くならないのである。にもかかわらず、おそらくこの劇団の中心女優であろうアルカージナがつねに焦点となるように、物語は構成され、寸断され、配置されていた。
 こういう内輪の力関係が、作品に直接的に影響を与えるコトは、どうも一流の仕事とはいえないと思う。どうしても、彼女に頼らなければならないならば、それに相応しい戯曲を選べばよい。しかし、残念ながら、「かもめ」はそういうふうには作られていないのである。

 面白いところもあった。
 オープニングからしばらくの、役者とキャラクターを一致させない集団創作的な空間。「気合いのなさ」といったが、はじまりそのものの意図が、非常に軽やかで散漫とした空間を演出している(しようとしている)。フェリーニの映画(あれは、なんて映画だったろう、ロケット発射台が出てくる映画)のように、漠然とした広場での芸人たちの饗宴が、イタリア的なセンスを感じさせる。
 それから第2幕の構成。トリゴーリンとニーナの対話を、前半の倦怠ムードの集団シーンと直接からませることによって、すべての人間カンケイの構図を一瞬の「絵」にして見せる、時間と空間のコラージュ手法に感心してしまった。

 しかし、休憩後の第3幕、第4幕は、サイテーだった。
 対話を、すべて全体主義的な構図とモノローグで処理していたが、いったいあういう演出にどんな可能性があるのだろうか? ボク個人としては、80年代の第三舞台を思い出したのだが、ああいう、垂れ幕が落ちて、音楽がバーン! 全員が一列に並んで、ビームがビイイイーンてな空間と、チェ−ホフとなんのカンケイがあるのものか。

「私たちは、一世紀以上も続くチェーコビアン(チェーホフ信奉者)のイメージから脱却しなくてはなりません。真似をするより、挑戦して失敗したほうが良いのです。スタニスラフスキーの革命は100年前のことでした!
 リスクを冒し、試みを続けた方が良いのです」

 と、演出家のノートにあるが、では、あなたにとってチェーホフとはなんなのか、第3幕、第4幕については、残念ながらわからなかった、と言いたい。
 第1幕、第2幕に関しては、少なくとも、新しいチェーホフ的混沌世界がかいま見えていたのに。第3幕、第4幕に至って、手を抜いたようにすら見えるのだった。

 ホントはよかった部分のコトをここにまとめておきたかったのだが、
 それには、おそらく、この日、発見した「チェーホフなるもの」について、また詳しく、考察することになるのだろうが、
 それよりも、公演=集団的な事業、という側面で、たくさんのことが来気になってしまった。
 そういう気分だったのかもしれない。

 

2002.05.31
JIN


演劇ユニットLABO!のページ ■ 

Jin's コラムのページ ■