溶けてゆけ、国家なんか……。その3
〜ワールドカップが終わる前に〜

 何十年もの間、国家をつくることを許されなかった人々がいる。
 自治区というコトと、国家というコトの間には、いったいどんな違いがあるのだろうか? ボクには想像もできない。
 アメリカはいう、テロによる国家組織などは許されない、と。
 しかし、もちろん、純然たる国家がテロ行為をすることもある。(イスラエルやアメリカのように)

 日本では、8月から、住基ネットが始まる。
 国民全員に11桁の番号がふられる。
 当面は大きな問題もないであろうが、しかし、いざとなると怖いものである。どんな個人情報が管理されているのか、わかったもんじゃない。

 横浜市議会では、日の丸の掲揚に反対する議員2人が反乱して除名された。
 日の丸を掲揚するか否かは、個人の思想信条の問題であると言っていられる、ボクらは幸せであるし、この幸せを持続しなくてはいけない。
 ニホン国民であることと、日の丸や君が代を尊重することはカンケイないよ、という抗議だ。(そもそもなんで市議会で日の丸ナンダ?)

 こういういろいろな意見が混在する状態が結局ニホンらしいところで、韓国のような、全体主義的に真っ赤に染まることができない、絶対勝っちゃるというような覇気に集約しない良いところである。良いかどうかは、まあ、意見の分かれるところだろうが……。

 たのもしいのは、「日本が負けた時より悲しかった」という、ミーハーなベッカム・ファンだ。これもやはり、ニホン的。実にたのもしい。
 イングランドの試合であれ、イタリアの試合であれ、イングランドやイタリアのユニホームを着て応援に行く日本人が多かったことに、外国ではこんなことは考えられないという意見が、当初多かった。いろいろなところで、耳にした。異を称えるニホン人も多かった。
 また、日本でも韓国でも、自分の国が負けたからなのか、居残った外国人サポーター達が、今度は、日本の青や、韓国の赤(Be the Reds!)のユニホームを着て応援したというレポートも多い。まあ、日本も韓国も、歴史的に諸外国には因縁が少ないし、親密な人柄なので、応援しやすいんだろう。
 なんにしたって、自分の国以外を親身に応援する人々は、ことに美しい。
 そうして、他民族、他国民のサポーターと大いに盛り上がれるのであれば、人生は豊かで楽しいジャないか。

 日本人だからといってニッポンを応援する義理も義務もない。ギギギ。

 それで、いっしょにイングランドサポーターと騒いだって、そこで、ああ、自分は日本人なんだな、と思う瞬間もあるし、そこまで含めて一緒になれたらステキじゃないか、と。

 国家とはなにか?
 ということをとても、いつも考えてしまう。
 そこに実質的な何かがホントにあるのだろうか?
 日本語? それだけ?

 三都主のお母さんが、ブラジル国内でインタヴューを受けたときは、ブラジル人らしく、「あたしはブラジルを応援しますよ」と言っていたのに、来日したら「日本を応援します」と答えていたけど、でももちろん、今はブラジルを応援しているだろう。
 所変われば人変わる、で、状況が変わればまた応援するチームも変わるのである。

 そんなコトは当たり前じゃないかと、いう人は素晴らしい。
 そういうコトが分かっているからニホン人なんだよ。
 その相対的な倫理観をそれぞれの精神の中に観念として宿しているのがニホン人なんだから。
 でも、それだけではダメだ。
 アメリカのグローバリズムに対抗する力にはならない。世界資本主義のコマーシャリズムに抗う力にはならない。
 それもわかっているコトなのだ。

 とにかく、一時的に国民が一体となって応援はするが、どこかで、ホドホドでいいよ、と思っている。みんなが一色に染まったらヤバイじゃん、と思っている。そう思っている限り、ホントの実力勝負でしか、ワールドカップにはのしあがっていけないだろうな。韓国のような集団無意識的な底力は出てこないだろうな。実力をあげるのも難しいかもしれない。
 そういう中途半端な国家なんだって。

 それでいいジャンか。

 世界的に見たら、ニホン人が、なんでサッカーで自己をアッピールしなきゃいけないのか、民族的な必然性はゼンゼンないよ。こんなに平和で、経済的に豊かなんだからサ。あとは、ただ、ニホンの文化的な特殊性をできるだけわかりやすく表現できれば、それでいいジャンか。

 やっぱり、大殊勲賞は、中津江村だと思うんだけど……。
(国家なんかゼンゼン超えてるしね)
 そこらへんがいちばん興味のあるトコだな。

 つづく。

2002.06.26
JIN