溶けてゆけ、国家なんか……。その2
〜ワールドカップが終わる前に〜

 ヨーロッパ文化との戦い。文化的な戦い。
 これは、いまなお現実の問題であり、非ヨーロッパ民族にとっては、これからもまだまだ続くであろう、息の長い課題である。

(で、はたして日本はどうなの? というのがホントのテーマだけどね)

 韓国vポルトガル、韓国vイタリア、韓国vスペインと、劇的な結末の裏で、どうにも拭い切れない遺恨を残してしまった3つの戦いが、やはり、偶然にも、ヨーロッパとの戦いであったコトは、実は、偶然ではない側面がある。
 もっとも、それも、ポルトガルにとって、またイタリアにとって、スペインにとって、戦った相手が、韓国、あるいは韓国だけではなかったと考えるかぎりのことで、当の韓国だけを切り離して考える材料はボクにはない。
(うー。まわりくどい言い方だな)
 つまり、
 ポルトガル対アルゼンチン人の審判
 イタリア対エクアドル人の審判
 スペイン対エジプト人の審判
 (スペインは、さらにトリダード・トバゴ人とウガンダ人の線審とも戦った)
 という構図が明らかにあり、それぞれの非ヨーロッパ民族の審判たちが、ヨーロッパを敵にまわすような振るまいをした、あるいは、審判の立場から言えば、ヨーロッパ的なサッカーを認めようとしなかったのだ。
 普段のウップンを晴らすというのなら、一矢報いたと表現してもいい。

 今回のこの騒ぎをなんと名付けてよいのか、わからないが、まあ仮に「審判の誤審騒動」とでもするなら、この「審判の誤審騒動」の裏に、巷で噂されるような裏取り引きや、買収、圧力のようなのものはなかったと思う。ただ、韓国側の審判団のうちで、非ヨーロッパ民族の審判たちが集まって、あるいは集団的な雰囲気で、ヨーロッパ的なサッカーに対して怨恨を育んでいたかもしれない可能性は想像できる。ヨーロッパの列強チームたちにとって、ここ(韓国)を徹底してアウェーにしてやろう、というような。また、それを助長する、無自覚で盲目な韓国サポーターの熱狂があったということだろう。
 FIFAのブラッター会長がついに口を出し、対ドイツ戦について、持ち出した解決策が、ヨーロッパの「優秀な」審判を使うということだった、という事実を見てもわかる。おそらくそういうコトなのだ。
 とすると、このブラッター会長の処置は、もろもろの非ヨーロッパ審判にとっては、結局のところ敗北を意味するのか?
 しかし、まあ、それも仕方がない。奴らはあまりにやりすぎたンだから――。

 対ヨーロッパとの文化的な戦争。こういう概念はもう(なぜか)日本人にはなじみがなくなってしまったものだが、しかし、世界中にはつとに根強くある。
 これは事実だ。

 ここ数日、電車の中で読んでいた、漱石の文芸論集から――。

 とにかく日本は今日においては連戦連勝――平和克復後においても千古空前の大戦勝国の名誉を担い得ることは争うべからずだ。ここにおいてかただに力の上の戦争に勝ったというばかりでなく、日本国民の精神上にも大いなる影響が生じ得るであろう。

「戦後文界の趨勢」というエッセイの冒頭なんだけど、つまり、日露戦争に勝って、日本国民みな、意気揚々として大いに満足、それは漱石センセイも同様というわけである。
 これを読み始めて、まったくのコインシデンタルな事象だったけれど、ボクは、すぐに韓国国民のことを思い浮かべたね。

 それでその結果が妙な所に来て、西洋にはかなわない、何ごとも西洋を学ばねばならぬ、似なければならないという観念――これが年来、今日まで養成された事実かも知れぬ。

 しかるにここに今回の戦争が始まって以来非常な成功で、相手は名におう欧州第一流の頑固で強いという露西亜である。それを敵にして連戦連勝という有り様――

 それで戦後の影響としては前言ったように自然勢いが西洋を標準としないで、日本といい、自身を標準とすることになるなるから人間が窮屈でなくなる。文学界の製作としても非常に闊達になる。のびのびした感じを以て対することになる。批評の上にも自由な行動が出来るようになろうと思う。

 というわけ。
 とにかく明治維新以降、なんにつけ西洋的な価値観にしばられて、窮屈だった。そこに日露戦争の大勝は思わぬ、解放感を人々にもたらしたのである。これで、日本人は自分らしい価値観に自信がもてると。
(こういう事態を夢見ている国は、いまも世界にゴマンとあるのだ。そして、韓国もそうだったということ。だって、韓国だって、まだキチンとヨーロッパと戦争をしたこともなければ、勝ったことなどないんだから。ヘンな言い方だけど、そういうことだと思う)
 で、日本はこの時、ロシアに勝った、と。ヨーロッパに勝ったと。そして、あの、華やかなりし大正文化が花開くわけだけれど、昭和に入ってすぐに金融恐慌、不況で(ここでA・Rが自殺)、結局、日露戦争で得た満州での利権を固守するためにドロ沼の日中戦争へ突入だ。そして大平洋戦争、そして敗戦――。

 こういう経緯のすべてを、対ヨーロッパとの文化戦争の流れという側面から見ると、この戦争をここまで深く経験した国民は、世界中でこの国民だけかもしれない、ということがわかる。(あまり良い論調ではないけどね)
 まだまだ多くの、非ヨーロッパ民族=国民が、ヨーロッパ文化を敵にまわして、窮屈な思いをしているのだ。そして、前のコラムでも書いたけれど、サッカーというのは、特にワールドカップともなると、これはもうヨーロッパ対非ヨーロッパの文化戦争そのものなのだ。
 だから、つまるところ、ヨーロッパの文化的なつきあいの経験的な差が出たな、と。そんなふうに一応、括ってしまいたい願望にかられるのである。

 では、一方で今の日本人がそんなにいいのかというと、結局、モロイ、ということだよね。あの負け方は、今の日本人らしい。らしすぎるよ――。

 つづく。

2002.06.24
JIN