戦争にだってルールはあるノダ!
「フランスVSウルグアイ戦」を見て

 毎晩、毎晩、大変な試合が続いている。
 なぜ、サッカーというスポーツだけが、これほどまでに世界中の人々を熱狂させるのか、初めてわかってきた気がする。
 つまり、サッカーというのは、ものすごくいい加減なスポーツなのだ。

 ルールは単純。ただボールを、手を使わないで前へ前へ進めて、ゴールという枠へ入れるコト。それだけ。あとはたいしたルールはない。手を使うゴールキーパーや、スローイングに関してだけ、ちょっと細かいルールがあるくらい。特別なのは、オフサイドで、これは「ボールの前ではプレーしない」というサッカーの発祥の時からの伝統に従っているらしい。
 だから誰でもできる。道具もボールだけなので、誰でもどこでもできる。貧乏でも、差別されてても、不自由な身でもできる。できちゃう。でもって、世界には、まだまだたくさんの貧困と差別に苦しんでいる人々がいる、彼らは、彼らの子供たちは、みんなサッカーをするのである。
 戦争中でも、敵国同士でも、捕虜や囚人たちの間でも、どこでもいつでもサッカーはプレーされてきたのだ。朝鮮半島を支配していた日本軍も、アフガニスタンを支配していたタリバーンも、民衆からサッカーだけは取り上げるコトができなかったらしい。
 しかも、あんまりに単純なルールのおかげで、その国や民族の地域性がそのままプレーに反映する。独自のサッカー文化を作り上げたりできる。国の数だけ、民族の数だけ、サッカーという言葉の方言があるというコトになる。

 だから、面白い。

 現代では、ハイブリッドな多国籍集団のグラブチームの方が、練習量も多いし、きっと代表チームよりずっと強いんだろうが、しかし、ワールドカップの面白さは、ある文化と文化の露骨な戦いとなるところだ。そして、この戦いはかなりシビアだ。
 選手もシビアだが、ルールを司る審判もたいへんシビアだ――。

 どうも、2002年、日韓共催の、21世紀初めてのワールドカップは、国際社会の混乱を反映してか、かなり大混乱の様相を呈してきているようなのである。

 今大会、これまでもいろいろな審判の不手際が取りざたされてきたが、今夜のフランス対ウルグアイに至っては、あれを公式の試合として認めていいのだろうか、と疑問に思うほどの大混乱であった。
 ただもう、審判は、その無能によって、選手たちを傷つけ、不安におとしいれ、余計なイラダチをあおり、それぞれの個々の能力が発揮できるような状況を確実に奪ってしまっていた。まったく、あんなものはサッカーとは呼べないだろう、というようなゲームだった。少なくとも、前半は――。
(後半は、選手たちがよくがんばった。自制して、プレーに集中して、危うい均衡でもって、いいゲームを展開することができたと思う)

 僕が見た限りの流れはこうだった。
 あのメキシコの審判は試合開始そうそうから、判断が遅かった。それで、中途半端なジャッジが重なった。そういう不正に対して、とりわけ敏感なウルグアイの選手たちが、有言無言にアッピールをしていた。そうした状況に、彼は威信をあおられたのであろう、それを打開すべく、おのれの手際の悪さを挽回しようと、彼は、ここぞとばかりに堂々と、アンリをレッドカードの一発退場にしたのである。今度は観客がブーイング。このブーイングは、スタジアム中を覆った。ホントはブーイングばかりではなく、「フランスが負けちゃう!」と思った動揺のほうが大きかったのかもしれないが。しかし、そうした大きな反応に、結局は、当の審判の方がさらにも動揺してしまったのだ。もちろん、10人になったフランスの方は焦る。焦りつつも、王者の余裕からやっと目を覚まして、真剣になる。ウルグアイも負けずに立ち向かう。プレーは自然と激しくなる。そんな中で、今度は、ウルグアイのFWのシウバが、フランスのリザラスに足を蹴られる。倒れて痛がるシウバ。しかし、動揺中の審判には反則が取れない(自分の出したレッドカードを信念でもって引き受けていなかったからだ)。一瞬、プレーは続いたかに見えたが、結局中断。中途半端な空気が漂って、再開。が、今度は、シウバがお返しとばかりに、ビエラのスネを足のウラでキック! 退場になったアンリと同じ行為だったが、今度もまた審判はなにもできずに、無視。しかし、ビエラが立てずに、また中断。その間に、シウバの行為がスローでスタジアムの大画面モニターに写る。あきらかに足のウラでのキックだ! もう会場中が大ブーイング。(ただし、このブーイングは審判にではなく、報復したシウバにである)。しかし、それでも、「おまえは自分の威信がそんなに大事か!」と叫けんでやりたくなる程に鈍感な審判は、その行為に対して、判定をくださない。くださせない。なにも出来ない。その後、観客はシウバがプレーするたびに、大ブーイングだったが、アレは、彼が「裁かれていないじゃないか」という不正な立場にいることへのブーイングだったのだ。すべて、あの、メキシコ人の審判の責任である。
 後半は、さすがのシウバも意気消沈した顔であった。そういう不公平な立場で平気でいるほど、いまのサッカー選手は悪玉ではない。みなまだ20代の若者なのだ。そういう、引け目のようなものがウルグアイのチーム全体をうっすらと覆っていたように思う。バルテズを抜き去ったレコバが決定的なところをはずしたのにも少なからず影響していると思う。で、10人という不利を背負っているフランスには切迫感こそあれ、なんら引け目はない。ガンガン攻めた。ウルグアイも自前のカウンターで巻き返した。そして、0-0のドローで終わった――。

 せめてドローで終わってよかったと思うほど、後味の悪いゲームだった。

 最初に言ったように、サッカーはとてもいいかげんなスポーツなので、とても大きな可能性を秘めているのだが、しかし、その分、審判のジャッジは難しく、審判がゲームを作るというどうしても側面がでてきてしまう。(同じ意味でサポーターがゲームを作る面もあるのだろう)
 いったん、審判が自信を失ってしまうと、サッカーというゲームは成り立たなくなってしまうのである。コトに、ワールドカップのような、自立した民族同士の戦いでは、それぞれのチームが独自のマイナーなルールを持っている。「サッカーというのはこういうものだ」という理念を持っている。それがぶつかり合うだ。審判は、まるで、国際紛争を調停するするようなもんだ。個々のマイナーさを凌駕する、より大きな普遍的なルールを持って、対処しなくてはならない、とすれば、これはもう大変な力業が必要である。

 しかも、世界はいま、グローバリズムの嵐だ。それぞれの国家間、民族間、また一国の中での階級の間で、貧富の差がますます広がっている。普遍的なルールというものがなくなっている状態なのだ。それが、サッカーにまで、反映しているとまでは言わない。そうであっては欲しくない。
 が、サッカーとはいつも、貧しい人々の側のスポーツだったし、今もそうなのだ。単なる娯楽を越えているだろうし、ネガティブなパッションもきっと背負っている。「サッカーでしか世界を見返せない」、そういう人たちが現にいるのだ。中途半端な「理念」では、これらを公平にジャッジすることは絶対にできない。
 お祭り騒ぎもいい。けど、マスコミはそういう部分もちゃんとアピールしてほしいとも思う。
 ひとつの素晴らしいジャッジが、世界に影響を与える、そういうこともあるのではないかと思う。
 そして、ボクらはジャッジをするということはいかに難しか。どうすればいいのか、考えるチャンスになると思う。
 そう、思っているのだ。

2002.06.06
JIN