2つの種類のたくましさの違いについて
「アイルランドVSドイツ戦」を見て


 巨漢のドイツ選手たちの中に混じると、アイルランド選手たちはみな小粒なのだったが、サウディアラビアのように、ぜんぜん子供じゃなかった。
 それどころか、テレビでアップになった時の表情は、みんな40代のようなオヤジ顔で、それも日本の、援助交際するようなひ弱なオヤジではなく、職人のような、豆腐屋のような、強い信念にツラ抜かれた頑固一徹オヤジ軍団なのだった。
 きっと、こういう風情の人間が、日本にも昔はたくさんいたのだ。頑で、不器用で、地道で、自分の行動にまったく迷ったりしない連中だ。
 その顔の皮膚の厚さ、腰の入った安定感を見ていると、屈強なゲルマン精神のドイツ人たちでさえ、近代的なヤワなお坊っちゃんたちに見えてしまったほどだ。あの、オリバー・カーンですら(実年齢とおり)30歳ていどの青年に見えたのだった。
 そうして、ボクはすぐにも、頑固一徹オヤジ軍団を応援し始めていた――。

 常に一定のペースを守り、反復練習で身に染み込ませた、組織的な守備を徹底して崩さないドイツ人もドイツ人なら、ただただ疑うことなく、焦ることなく、愚直に、まっすぐに攻め続けたアイルランド人もアイルランド人だった。
 試合は、或る、目に見えない、「一つの時間」を巡って戦われていた。そんなふうにボクには思えてきた。
 一試合の中で、ほとんどペースを変えず、集中力を持続させる、そういうドイツ人(チーム)の強さのコトは、チャンピオンズ・リーグで戦った、レアル・マドリーの選手たちもどこかで言っていた。それこそ確かに、ドイツ人という気質の伝統である。そこに、今回のこのチームは、スピードとテクニックと高さという武器に裏打ちされた、近代的な戦術を身に付けていた。相手にスキを与えないという点ではやはりトップのチームだ。
 だから、アイルランド人たちは、一点専攻された状況は同じながら、カメルーンとの時とは違った手強さをジリジリと感じてはいたろう。揺るがない、崩れない敵の安定感を感じていたろう。しかし、彼らはその上を行く、頑固一徹オヤジ集団だったのだ。何度ボールをカットされようが、奪われようが、逆襲にもひるまず、その度に、愚直に、焦らず、前へ前へと攻め続けた。何度でも守りに戻った、そして、また再び一から攻めに入っていった。
 ドイツのプレッシングは相変わらずキツく、サイドをえぐれるのも、3回に1回、4回に1回の確率だ。そこで途中でボールをカットされれば、また急いで守りに戻らなければならない。何回か、すばやいロイ・キーンの飛び出しから、ゴール前、フリーでシュート! という決定的なチャンスにまで持ち込めるのだったが、今度はそこにはゴリラのようなカーンが立ちふさがるのだ。
 そうして今度は逆にカウンターから危ういところまで攻められてしまう。ヒヤリとすれば、普通なら、攻める気持ちもたじろぐだろう。テンションも下がるだろう。しかし、それでもいっこうにひるまずに、何度でも繰り返し、彼らは前へ進む努力を続けるのである。
 そこには、気負いもなければ、焦りもなかった。
(頑固イッテツおやじたちには、余分な情報で精神の集中が乱されるというコトがなかった。別にカーンだからどうだとか、バラックだからどうだとか、ドイツだからどうだとか、そういうマスコミが好みそうなデッチアゲの幻想に振り回されるところなど微塵もなかった)
 途中、ぶつかり合って、熱くなる選手同士もいたが、ののしったり、叫んだりしない。だた、じっとにらみ合っているのだ。一言、二言、言葉で牽制するにしても、腹がすわっているので、腹から声を出しているので、やりとりがキチンと伝わっているのである。

 結局、アイルランドの一徹オヤジたちは、最後の最後、ロスタイムで不可能と思われた「岩」を砕いたのである。
 1対1。引き分け。ガクゼンとするドイツサポーター、一方、狂喜乱舞のアイルランドサポーター。
 アイルランドはこれでリーグ突破が決まったわけじゃない。試合に勝ったわけでもない。しかし、ある一つの「理念」をつらぬくという点では、人生が一つの困難に勝ったのである。いや、そういう勝利があることを観客に伝えたのである。

 ボクはアイルランドという国のことをよく知ってはいない。しかし、「ああ、こういう国なのだ」とよく腑に落ちるようだった。
 古代のケルト民族の末裔で、今は敬虔なカトリック教徒たち。ラテン系ともゲルマン系とも違う難解な言葉。いわばヨーロッパの少数民族からなる小国。
 ボクは、今夜のガンコ一徹オヤジたち(でもホントは20〜30代の若者たちなのだが)に、先進国がいちように、経済と情報と科学技術の大騒ぎのなかで忘れてしまった、いわば100年前の人間の心性というものを感じた。
 ここまで言うと、思い込みにすぎると思われるかもしれない。しかし、例えば、日本の明治時代の古い写真に写っている、カゴ担ぎや人力車夫や相撲取りなんかを見ると、同じ心性の安定感を感じるのだ。腰が座っていて、顔に余分な表情がなく、キリッと相手を睨んでいた、あのアイルランド選手と同じ強さを感じるのだ。

 実直さや、堅実さでいえば、ドイツチームも負けてはいない。「戦う」ことへの責任感と、それを背負う強い民族的な心性があるように思う。
 しかし、同じたくましさでも、ドイツチームのモノとアイルランドチームのモノは、違うような気がするのである。おそらく、違うのである。
 ドイツチームたちの強さは、真面目で勤勉な性格が集まって、磨き上げられたチームという集団に、その根っこがある。チームという強い拘束と、その拘束を引き受けて自制しつつ、個を立てていける、そういう性格がうまくいっているのである。
 しかし、アイルランドチームの強さの根っこは別のところにある。集団の拘束力が個々を引き締めているというのではなく、個々の個性はそれぞれ強い我を発散しながらも(だって、ロイ・キーンの離脱なんて、こういう身勝手なガンコさはちょっと先進国では考えられないよね。監督も監督ならロイ・キーンもロイ・キーンだよ!)、ただ、その足元が、伝統というか大地というか、アイルランドという土地に深く根付いていて、その底辺の奥底でもって個々が結びついているのである。
 だから、集団のまとまりの仕方の大きな差異があるのだ。
 近代と前近代、そういってもいいような時代の違いの戦いだったのだ。
 人類が大きく進歩したと思っている、この100年の、そういう「一つの時間」を巡る戦いだったと、思う。

 そう思って、劇的な同点ゴールを見たとき、ボクは、ボクには、もう彼らのようなたくましさは失われてしまったけれど、けれど、それがまだ通用する真実があるんだと、勇気づけられたのだ。
 ホントに、ホントに勇気づけられたのだ。

 ホンモノの人間はまだいるのだ。彼らは土の上で生きてるんだと――。

2002.06.05
JIN