世界のルールを作るコト
〜トヨタカップを見て〜

 延長戦の末に負けた、10番を背負ったリケルメの涙に感動しながら、ボクはテレビを消した……。

 ブチッ!

 悔しかった……。
 勝負というものは運に過ぎないが、その運を引き寄せるのもまた実力なのだという事実を、ただ、見ていながら感じていた……。

 結局、問題は、ルールということだ。
 して、そのルールも結局は同じ人間が決めるコトなのだ。
 審判も人間だし、監督も人間だ。選手も人間だ。
 ボクら日本人が忘れていることは、ルールそのものを自分で作る力なのだ。
 政治であれ、経済であれ、会社であれ、劇団であれ……。
 サッカーでも、本当にルールを決めるのは、当事者なのだ。
 選手なのだということを知らされた。(まだまだ甘いぞ、日本代表!)

 ボカジュニアーズのアルゼンチンチン選手のプレーをセコイとか、こすっからいとかいうのは簡単だ。だが、彼らのやり方が、後半以降は主審の判断をも変えていたのは確かだ。

 サッカーというのは、けっして完成しないスポーツなのだ。
 試合をつくるのは、十中八九、審判で、その審判の言語なのだが、しかし、言語というものは、異なる文化の結節点にあらわれるので、常に複合的な文化の前に驚異に晒されるのだ。
 今日の審判がまさにそうだった……。

 なにが正しくて、なにが悪いのか……?

 前半、デルガドを退場にさせた審判の言語は、ヨーロッパ人の、それもデンマーク人の公正な彼特有の言語的な判断だったろう……。
 しかし、後半、なにがファウルで、なにがフェアであるかは、しだいに選手たちの言語に従っていったように思う。特に、南米のボカの選手たちは自分達の力でルールを勝ち取っていったように思う。

 今、世界には絶対的な言語などというものはないのだ。
 なにが正しくて、なにが悪いのか……?
 (アメリカの軍事力なんかクソくらえだ!)

 彼らは試合には負けたが、彼らが本当に戦ったのは、自分達を取り巻く、不利益なルールだ。南米の貧困と、不理解と、軽蔑に対する世界の不当なルールなのだ。彼らのパッションは、けっしてバイエルンの多国籍軍チームにはない、透徹したパッションだった。

 ボクはただその気持ちに感動していた。

 なにが正しくて、なにが悪いのか……?

 世界にはたくさんのルールがあるのだ。
 その事実をごまかしてはいけない。
 言い換えれば、たくさんの信仰があるのだ。たくさんの神様がいるのだ。
 たくさんの死後の世界に対するヴィジョンがあるのだ。

 後半開始前に、ロザリオにキスしたリケルメの信仰は、けっしてヨーロッパ的な言語でない。ヨーロッパ人が忘れてしまったキリストへの言語だ。信仰だ。その技と力で世界に切り開いてゆけるルールなのだ……。

 サッカーとは言語である。

 とすれば、日本語のサッカーというものもあるはずだが……?

 少なくとも中田のサッカーはいままでも、そしてこれからも、日本語ではないし、またイタリア語でもないのだ。まあ、それはいい……。

 各国語の戦い、という点からいっても、今日のトヨタ杯を見て、がぜんワールドカップが楽しみになってきた!

と、いまのボクにはそれしか言えない……。

 jin
2001.11.27