「この一年のあいだに起こった出来事」
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疾風Do党「仰げば尊し」を見て。

 歌舞伎や能では、等身大の人々の暮らしを描いたものを世話物という。
 そういう意味で、DO党の世話物はやはりバランス感覚が良い。

 そういうことを再確認できたこともあるが、そういうことより、1年ぶりの再演という事実が、ふと、自分のなかにこの1年のなかに起こった出来事をあらためて噛みしめるような、個人的な劇体験であったコトを書きたい。

 (だからゴメンなさい。これはゴクゴク個人的な文章になりそうです……)

 つまりは、LABO! の仲間でもあり、DO党の常連役者でもある、宇堂翔一朗(平川和宏、以下平川さんと云う)のことを書きたいのだが、彼の演技に、芸人が自分の芸を自分の人生に引き寄せて、そうして一つステップアップする姿を見た気がした。そういう意味で彼にとっても、この舞台の意味は大きく、おなじく大きな1年があったということだ。

 初演の平川さんは、この「オヤジ」と呼ばれる、40才近い高校生の役をどこか持て余していたようなのだが、今回はまったく違った。彼の演技は、年を取ること、そしてそこから自分が失ったものをふり返って、昔を(=今の高校生たち)を見ることを、すべてリアルな感触のウチに収めていた。彼がじっさいになにを考えたのか、僕には知らない。けれど、「死」を前にして懸命に生きようとする「オヤジ」という役が、この1年のあいだに、彼にとって突如リアルになったのだ。
 終演後、平川さんは「なにもしなかったんだよ」と云った。
 「ただ、みんなを見守りたかったんだよ」と。その通り、彼の芝居からは、余分な気負いのようなものが抜け、存在感の核のようなものが終始光って立っていた。

「死」の側から人生を見るコト、などというと平川さんも「おおげさな」と云うだろうが、そういう視点を、受け取らざるをえない人生の分岐点のようなものが、たしかにあるのだ。彼にとっては、この1年がそういうものだったのではないか、と想像した。

 芝居の終わりで、平川さんは、死んでしまった自分の代わりに、その息子の役で登場する。
 その息子はつまり「死人」の代弁者で、「死んでしまった人」の思いを伝える役なのだ。それを彼はじつに淡々と、余分な力を排し、かつ明確な意思でもって演じていた。
 それを見ながら、僕は思ったよ。死んでしまった人が最後にどう思っていたのか、それを知ることが出来たら、残された人たちはどんなに安心するだろう。それさえ知ることができたら、どんなに幸せだろうと……。

 これはそのまま能だ。世阿弥の想いと同じものだ……。

 人生というものの面白みは、年を取ることだ。なんて云うと、これもまたモノのわかったような言い方になってしまうけれど、年を取ることは、なにかを失うということだ。失っていく事実に抗うことだ。結局は、チェーホフもテネシーもそういうこと描いたのだと思う。世阿弥はそのための究極の「救い」を魔術的に発明した。それが、死んだ人をこの世に蘇らせるドラマなのだ。

 「われら役者は、夢の登場人物。死人と同じだ」
 これはシェークスピアのセリフ――。
 「人生は、夢の中間(ちゅうげん)なり」
 これは世阿弥のセリフ――。

 あなたが俳優なら、おのれのあがきを舞台にのっけてもしようのないことではないか?

  jin
17/11/2001