「リラックスした空間へ」
――ク・ナウカ「トリスタンとイゾルデ」を見て。
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しょっぱなから言いたいことを言ってしまえば、ク・ナウカにはなぜ、リラックスした空間がつくれないのだろうか? それは、二人一役という、ユニークな表現方法に固執しているせいだけではないように思う。端的に言えば、「語り」にユーモアが足りないのだ。これは結局、言葉を語ることに対する、演出家・宮城聡の「切迫感」にあると、僕は密かに思うのだ。 正直に言えば、今回の「トリスタンとイゾルデ」は、全体に完成度の高い作品ではなかったけでれど、僕は同じ演出家として、宮城さんに深く共感してしまった。この人はおのれのコンプレックスでもって作品をつくっているなあ〜、と納得してしまったのだ。その感覚はよくわかる。 しかし、演出家がおのれのコンプレックスと戦っているかぎり、作品からユーモアは生まれないのだ。「あとは君に任せたよ。好きにやってくれ」という不遜というか、無責任な素振りが、タイミングよく役者に受け渡されないと、作品はけっしてリラックスしない。それが宮城さんにはできない。僕にもできない。なかなかできない。それは、ある種の演出家には、とても難しい仕事なのだ。(できる人にはシロウトにでも楽々とできるのに……) 今回、宮城さんはあらんかぎりの職人的な技でもって、舞台空間を演出的に埋めようとした。演出的な作為が前面に出ることも厭わずに。あらゆる演出的な「引用」でもって、埋め尽そうとした……。しかし、「語り」にだけは、その斬新なメスを入れることをためらった。のか、それとも忘れたのか……? MOVERには、あれだけ様々なテンションの肉体を指示しておきながら、なぜ、SPEAKERの発声方法にだけは、あのような切迫したものだけを要求しつづけるのだろうか?
結局、「言葉」だけがドラマをつくるのだと信じているようにしか思えない。そして、ドラマというのは常に切迫したものであると……。 彼は、切迫した空気でしか舞台を埋めることはできないと、思っているのだ。 「舞台とは風俗である」と、ピーター・ブルックが言った面を忘れてはいけない。キャバレーの、ありきたりのお笑い芸の中に、舞台の本質があるのだ。 それを、僕も忘れていた……。 利賀の「演出家コンクール」は素晴らしい企画だ。 でなければ、僕らには、アメリカの「報復」という名の空爆を全面的に否定することはできない。 演出家などというものは、いなければより良いより平和であるということを、人類は再び思い知るべきなのだ。 jin |