「1000年とは言わないからさ、せめて1か月でも……」
――
疾風Do党「オイル089」を見て。

 2001年5月26日(土)ソアレ
 疾風Do党の芝居をみた。

 「エドモン」と呼ばれ、肉体的に老いることなく、1000年と生き続ける異変種の人間が発見された近未来のお話。「エドモン」は発見されしだい、人工管理局によって「保護」されることになっていて、舞台はとある「便利屋」。そこにボランティアで集まった若者たち。そのなかに「エドモン」がいる! というコメディ・サスペンス。

 総合的な感想をいうと、Do党は駅前劇場でやる人情モノの方が完成度が高いと思う。
 それは単純に稽古時間の問題……。
 今回のSFモノにしても、前々回の「死後の世界の話」にしても、集団劇でやるためには、「その世界のイメージ」をみんなが共有しているコトが必要だ。「そういう特殊な世界のルール」をみんなで描くことが必要だと思う。
 それには、みんなでもっとワイワイ話すといいだろうし、作家も、みんなが「特殊な世界」を理解するに当たって、机の上で考え出されたイメージがどんどん変わっていくコトを期待しないといけない。集団の想像力は、らくらくと作家ひとりの想像力を超えてしまうし、そのときに初めて、「特殊な世界」が舞台上にリアルに立ち現れる、のだと思う。
 映像ならば、そういう「集団の想像力」という面倒なモノはいらない。役者は被写体にすぎないから。けれど、舞台では、役者ひとりひとりが頭のなかに持っているイメージがそのまま観客に伝わってしまうノダ……。それが、今回みたいなSFの場合、ズレてるととても気持ち悪いよね……。

 「エドモン」という存在が、世間的にどういうふうに嫌われていて、恐れられていて、また羨まれているか……?
 思っていることは、ひとりひとり違うにしても、(日本的な)世間なら「だいたいこうだ!」という、週刊誌的な、スポーツ紙的な、共通の空気があるはずで、それはみんなが共有してないと……。
 それには、最低1か月の稽古時間がいると思う。1か月の稽古というより、正確には、1か月ずっとみんなが「その世界」のなかで生きる時間ということかな……。それには、1か月まえに台本があがっていないとダメでしょう。台本はなくても、せめて、はじめは抽象的だった「エドモン」という存在が、みんなのなかで、だんだん具体的になってくるような素材がないと……。

 だから、そういうシチ面倒臭いコトをやらずに、最初から分かりあえる日常世界を描いている、駅前のDo党のほうが、わかりやすくて、馴染めるし、面白い。
 挑戦としては、SFなんか良いと思う。
 今回の設定もとても面白いしね。
 けど、それには、もっと時間をかけてグツグツ煮込む、稽古をしないと、舞台表現というものを軽く見ているな、と思われても仕方ないと思うのです。

 おそらく、これは想像にすぎないが、作家として、福田卓郎さんは、自分の描いた世界が自分の描いたままに、単純でわかりやすいものであり続けてほしい、と願っているのだと思う。もちろん、舞台というモノは、単純でわかりやすくなければ、面白くもなんともないシロモノだから、当然の願望ではあるけれど、しかし、それは、出演者全員にとって(作家だけでなく)、単純でわかりやすい方がダンゼン芝居は面白くなるのだ。(そして、そうなるコトはとても難しいコトだ)
 そこのところに、作家としての恐怖があるのだと思う。
 だって、ひとりひとりの考えていることは、てんでバラバラで、それを言い合い出すと、コトはぜんぜん単純でわかりやすいものにはならなくなってしまうから。作家は自分がつくり出した世界が壊されてしまう気がするから。
 ひとりの作家が、言葉でつくり出した世界には必ず矛盾があり、不整合がある。(その不整合さ加減こそ、その作家の特質であり、いちばん面白いところなのだが……)
 稽古というのは、その矛盾/不整合を暴き出す作業だ。
 その矛盾/不整合をどうにかこうにか整理して、解消しようとするのだ。そして、どうしても解消しきれない矛盾/不整合があって、それは、矛盾/不整合のままに受け入れることができるようになっていく、あるいは矛盾/不整合のままに「理解」できるようになっていく……。
 それが稽古というもので、そういうゼイタクにして、しんどい時間を乗り越えて、初めて、作家が言葉で考えて書いた世界が、舞台という3次元の世界でリアルな命を獲得するのだ。

 ボクなんか、フィードバック能力が低いせいもあるけれど、新しい脚本と取り組むたびに、初めて芝居をやったド素人みたく、オロオロ、ドキドキしてしまう。
 芝居作りには、いつまでたっても手慣れるということがない、と思う。

 あるいは、演劇には演劇の遺伝子があって……、

 個体を踏みにじって、演劇はいつも新鮮で、刺激的であろうとしている。
 それこそ「エドモン」のように「老いる」ということはないんだと思う、のです。

jin
15/05/2001