死ぬのは怖い。 が、愛する人に死なれて、 一人、取り残されるのはもっと怖い。 愛する人がいないまま、 老いていくのはさらにも怖い。 ここに「詩」がある。 死ぬよりも怖いところ、 一人取り残される恐怖から、 言葉はいつもやってくる。 だから――死は、 都市に生きる現代人にとって、 最後に残された「詩」の時空間なのである。 死ぬのは怖いが、 取り残されるほうが、もっともっと、 ずっと、切実に怖ろしいのだ。 すると、ある意味で「死」そのものは、 「美しい」とも言えるようになるのではないか? 無論、空想の中のヴァーチャルな「死」ではあるのだが、 しかし「死」が、いったい、どういう現実なのか、 「死んだらどうなるのか」 それを知ってる人は、 この、科学文明の社会ではだれもいないのだから、 「死」そのものが、生きている側にとっては空想で、 ヴァーチャルなのだ。 そして、それは究極に美しいものともなるのだ。 倫理は、そこで、「死」を肯定してしまう。 ネットで集まった集団自殺の連中が、 生きることよりも、 死ぬことに、美しさを求めたとしても、 生き残っている側から、 そりゃ、違うよと言っても、 それだけでは、一面的すぎるのだ。 向こうへと行こうとした意思を、 あるいは、向こうへ行くしかないと、 あきらめ、怯え、恐怖にふるえた個体を、 こちら側にいる個体は、 なかなか簡単には想像できない。 「詩」の言語を使うよりほかには……。 この詩は、死、し、シシシ。 明るい。軽い。 暗い。喰らい。 ガブッと食べられ、 また、蘇れ! |